ユニバーサルとプリュリバーサル

ユニバーサルなデザインという言葉を耳にした時、どうも定義が曖昧な気がして、少し考えてしてしまった。

言葉の一般的な定義を調べてみると、以下のようである。

ユニバーサルデザイン(universal design)とは、文化・言語・国籍や年齢・性別・能力などの違いにかかわらず、出来るだけ多くの人が利用できることを目指したデザインのことである。

wikipedia

「global」なデザインは、比較的単純な意味合いであり、問題ない。
「universal」であればuni(単一)、verse(次元)で「単元的、単次元的」となり、「単一文化、単一言語、単一国籍」のような、限定的な概念に収斂していくように感じられる。

“A” universe

例えば、コンゴ共和国の一角に、ボノボの一部の群れのみに伝わる赤い看板を立てておき、それが「危険」のサインである意味が認知されており、一方で他の集団にとって意味不明であれば、それが本来の意味のユニバーサルなデザインであるように思う。

以前、とある中東圏の国を旅した際、このようなカレンダーを目にした。中東の諸々の常識は私達のそれと逆であることが多々あり、左から右に向かって書くアラビア文字も、中東の人々にとってはそれが常識である。それが彼らにとってのユニバーサルである。

universalが「共通の」のような意味合いで「使われたい」言葉なのであるとしても「世界中のみんながニコニコ笑顔で納得するデザイン」など存在しえないし、それならstandardized(統一された、規格化された、標準化された)designのような言い回しの方が、言葉としては直接的で欺瞞がなく誠実かもしれない。

「uni」という言葉にそもそも無理がある。「こうあるべき」というような欧米的な押し付けの前提が見え隠れした、危険な言葉に思える。このままではuniという大義名分の下に、枕草子も左から右の横書きへ、相撲もジェンダー的な何かを考慮してスポーティなユニフォームにさせられてしまうかもしれない。

我々は自分自身によってデザインされている

単純化され、統一された世界の先に何があるのかを考える上で、ハイデッガーの存在論的な考え方は大切である。デザインは存在論的(Ontologic)であり、我々がデザインしたものは、巡り巡って逆に我々をデザインしている。我々は、自分たちがデザインしたものによって再帰的に逆にデザインされている。

世界は世界をより画一的にし、その画一的な世界に影響され、自分たち自身もより画一的になる。それはとても哀しいことではないだろうか。アルゼンチン・ウシュアイアのヤーガン族ももういないし、ナミビアのヒンバ族もいずれ消えるだろう。特殊で個性的なものは追いやられてしまう。

プリュリバーサル・デザインを

ユニバーサルな世界にはすぐに終わりが来る。uniの代わりとして、対義語の「plural」(複数の)を用いた「Pluri-versal Design」としてみてはどうだろう。

多元的であること。21世紀のあり方としては統一よりも、共存。規制よりも受容の方が未来的でイケている。認め合うこと、受容しあう事、もっといえば愛し合うこと。マクロ的に世界を見ても、ミクロ的に社会や会社組織の中のあり方を見ても、この転換から派生して生まれるものは大きいと思う。

PluriversalやMetaversalを考え出すと、おそらく纏まらなくなるため、一旦区切りとしたい。

多言語サイトや海外サイトの制作では、常にユニバーサル・グローバルというった概念がついて回る。少しだけ文化人ぶって論じてみる格好で文にしてみたが、今の時代あまり求められていないのかもしれない。

ぴえん🥺